10/17/2007

Jポップとは何か-巨大化する音楽産業-



かなり古い本(3年くらい前??)だが、一応復習兼ねて。

「Jポップとは何か-巨大化する音楽産業-」 鳥賀陽弘道 著



シーケンサー+MIDI+サンプラ-

デジタル化でいちばんのとばっちりを受けたのがスタジオミュージシャンだ。

音楽制作の現場にデジタル技術が入って起きた変化をまとめておく。
①演奏や録音から「手作業」が激減した。
②楽曲をつくり演奏する作業が「集団」から「個人」になった。


その場のミュージシャンの演奏の応酬、やりとりというか化学反応で「とんでもないものができちゃった」というのが少ないんです。


音楽録音が「集団作業」から絵描きや小説家と同じ「個人作業」になりつつあります。
でも第三者の耳が介入しない一人の作業で創ったものは、どうもインターネットで公開されている個人日記のような感じがするんです。
自分で自分のつくった世界に浸って喜んでいるといか・・・・・・。


プレイヤーの独自の楽器の音とかは出てこない。どれも似たような音になる。音楽にとってはマイナスです。
それでも音がきれいなので、スタジオに持ってこられると直しづらいんですよ。

短時間でどんどんつくる、音楽自体が消耗品の時代になった。

音楽は「作品」ではなく「商品」になったんですよ。


これが重なるうちに、日本のメジャーレコード会社は、物議をかもしそうな歌の発売をことごとく自主規制する、神経質なまでのリスク回避体質に陥っていった。
違法行為といった明らかなスキャンダルだけではない。現実の生々しい社会現象を取り上げたり、批判的に歌ったりする、社会性を帯びた作品でさえ敬遠される。


広告は基本的に、最大多数の消費者が商品を購買するよう説得するのが目的であり、そのため 「社会のマジョリティが合意済み、あるいは合意可能」な表現の範囲内でつくられる。


逆に音楽表現は本来、マジョリティの合意を目的としない。
マジョリティが合意していなくても、ふだんは社会に届かないような少数の人々の声を言葉にしたり、マジョリティが気付かないような内容を歌にして世に出したりできる、極めてレンジの広い表現形態である。

しかし、タイアップの成功のせいで、日本のメジャー音楽産業は、この広い表現レンジの大半を自ら放棄してしまった。
その意味で、タイアップの力でヒットチャートの上位に顔を出すような曲は、最初から表現の多様性を放棄し、最大多数が合意可能な範囲でつくられている。


筆者は「音楽が企業の営利活動と手を結ぶことそのものが商業主義で許されない」というような原理主義的な芸術至上主義には、賛同しない。
しかし、ヒットを出すという目的のために広告タイアップの力を借りるなら、音楽は、その表現の自由のかなりのレンジを放棄しなくてはならない。


こうして、通信カラオケの登場以降、消費者が歌手やバンドを見る視点に変化が生じた。
CDを買う動機にも、その音楽や歌手が、購買者のセルフ・アイデンテティーを定義しうるかどうか、つまり購買者にとって「自分にふさわしい音楽や歌手かどうか」が重要な要素になったのである。


そこでは購買動機として「その曲が好きかどうか」以外に、歌い手やバンドのファッション、容姿、マスメディア上での振る舞いや発言、果てはCDジャケットや広告のデザインなど、音楽以外の要素が重みを増す。


自己愛型消費で重要なのは「うた」そのものではなく「そのうたを購入すると、どんな自分になるのか」だからである。


消費者がポピュラー音楽を楽しみたいと思ったとき、日本はその選択の多様性が乏しい環境にある。

まず、価格の多様性がない。日本盤CDの価格は「再販売価格維持契約」(再販制)によって、全国一律にレコード会社が定めた価格が守られているためだ。
日本のレコード産業は、価格競争という他産業ならごく当たり前の競争を公的な「規制」によって免除された特殊な業態だといえる。


特にアメリカと比べると、日本は音楽を公共財として扱う傾向が非常に少ない。

わかりやすい例でいえば、アメリカに比べFM局の数が非常に少ない。
FMラジオとは、CDとちがってお金がなくても音楽にアクセスできる手段である。
したがってニューヨークでは、貧しくても音楽に接する機会が保たれている。

一方、東京圏で聴取可能なFM局はせいぜい十局だ。
しかもその局も内容にそれほど大差はない。トークが多くて音楽が少ない。
音楽はヒットチャートものが多い。

コンテンツの多様性では、ニューヨークには遠く及ばない状態が長く続いている。
こうした環境では、商品として音楽を買うことだけが音楽へのアクセス手段になってしまう。
言い換えれば、お金がなければ、音楽にアクセスする機会が極端に少なくなる(有線放送やCS放送はFMに比べてコストがはるかに高い)。

貧乏か金持ちか、所得によって音楽へのアクセスに差が出る。


日本のレコード価格は再販制度によって固定されている。
おかげでインフレーションの間ずっと、インフレ率分の「実質値下げ」を享受できた。
ところが、消費者物価指数が下がり始め、貨幣価値がデフレーションに突入した九七年ごろを境に、CDの価格は「実質値上げ」に突入した。

レコード産業は「インターネットからのダウンロード」「CDをパソコンで焼けるCD-Rライターが普及してコピーが増加したこと」「携帯電話にお小遣いを奪われた」などと様々な「CDの売れ行きを減らした犯人」を挙げている。
もちろん、どれも多次元方程式の変数のひとつではあるだろう。


CDの売り上げは急減しているが、日本人の音楽への需要は衰えるどころか、むしろ増えている。

「レコード不況」ではあるが「音楽不況」ではないのだ。
着メロやDVDという新しい音楽メディアが登場し、CDが食われているというだけなのだ。
つまり、音楽を消費者へ運ぶメディアの一部が、CDから着メロやDVDという新興メディアへと移行し始めているのである。


モンゴル800がメジャーの力に頼らずに成功できた環境のひとつには、メールやウェブサイトというインターネット・マスコミュニケーションの存在が間違いなくある。
かつて、テレビ・ラジオや雑誌・新聞など、旧型マスメディアにプロモーション媒体としてアクセスするには、専従の宣伝スタッフや予算を持つメジャーレコード会社が独占的に有利だった。

が、インターネットという安価かつ簡便な自己発信型マスメディアが登場したおかげで、インディーズとメジャーの間にマスメディアへのアクセス力に差がなくなってしまった。


インディーズの成功が示したのは、かつてメジャーレコード会社が独占していた財産「コンテンツ(楽曲・歌手)の開発能力」「マスメディアへのアクセス力」「レコード録音施設」「販売・卸しの流通網」「資金力」「組織力」がいずれもメジャーの独占物ではなくなりつつある、という事実である。

つまり、かつては「メジャー会社からデビューするのがプロデビュー」だったのが「プロデビューするのにメジャーレコード会社である必要はどこにもない」という時代が来てしまったのだ。



CDが売れなくなったことについて、「外部の敵」を非難することには熱心だが「自分たちが送り出す楽曲は、今のままでいいのか」という真剣な議論や検討の声が聞こえてこないのだ。

そういう反省がないまま「外部の敵潰し」ばかりを続ければ、リスナーの反感を買うだけの結果に終わりかねない。

そろそろ「タイアップなどなくとも、人々の心に響くうたをつくろう」というごく単純明快な「製品内競争」が始まってもいいころではないだろうか。

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