11/06/2007

最高の自分を生きる 丸山敏秋






最高の自分を生きる 丸山敏秋



◎感謝や感動の心が大きいこと
◎自分の身に起きることはすべてプラス、ととらえること
◎先のことはあまり考えず、目の前のことに精一杯取り組むこと
◎志を高く持つこと
◎ギブ・アンド・ギブの精神で生きること


稽古とは、自分の身体を型にはめ込んでいく訓練である。稽古がはっきりとした目的に
向けて行われるとき、それは修行となるのだ。


修行とは、世俗的な日常経験の場における生活規範より以上のきびしい拘束を自己の心身に対して
課することである。そしてそれによって、社会の平均的人間が送っている生き方より以上の「生」の
Leben mehr alsに至ろうとすることである。「人格の向上」とか「人間形成」とよばれるものは、具体的には、
このような実践的訓練の過程を意味する。
そうした修行には、主として外界の事物に向かう外向的実践(たとえば修道院生活の労働のように)と、
瞑想修行のような自己の心の内部に向かう内向的実践に大別できる。世阿弥が稽古を禅の修行になぞらえたように、
技芸の稽古が修行に進んでいくとき、日本の場合では無我の境地をめざす仏教思想が大きな役割を果たすこととなった。



技芸あるいは求道の世界でその「道」を究めるためには、よき師に就き、その師を心から尊敬信頼して、技能を修得しなければならない。
道元いわく、「正師を得ざれば学ばざるに如かず」。
技芸の師は普通、あまり教えない。師自身もかつて就いた師から教えられることはなかったし、技芸の蘊奥は教えられるものでもないことを、
経験的によく知っているからだ。型ならば教えられるが、それもあえて無理には教えない。そもそも、「教える」という言葉は稽古の世界にふさわしくない。
なぜなら、日本の技芸では身体などの動きがない、いわば空白余白のところに無限の妙趣を見出そうとするからだ。「せぬところがおもしろき也」
(世阿弥『花鏡』)、「目に見えぬ所をさとって知る事」(宮本武蔵の『五輪書』第七戒)と言うがごときである。動きのないところ、目に見えないことを、
どうやって教えられようか。
したがって弟子は、真似をするしかない。技芸でも学問でも、学びの道は「まねび」、すなわち師の技芸や知識をひたすら謙虚に模倣することからしか
始まらない。模倣するとは、一定の型に身を入れる修練を積むことである。



①善いしつけ
②自分の選んだ芸術に対する情熱的な愛
③師に対する批判抜きの尊敬


まず弟子は最初、師がやって見せることを、良心的に模倣すること以外には、何一つ要望されることがない。
師は長ったらしい説教や理由付けを嫌って、簡潔な教示をするにとどめ、弟子が質問することなどは勘定に入れていない。
彼は弟子の模索的な数々の骨折りを落ちつきはらって静かに眺めており、別に弟子の独立心や創意工夫を期待しないが、
弟子が成長し成熟するのをじっと待っている忍耐心を持っている。両者共に時間をたっぷり持っており、師はせきたてず、弟子は
あわてて手をさし出さないのである。
時期尚早に弟子を芸術家に目覚めさせようなどとは毛頭考えず、師は彼を、手業が無上によくできる有能者に仕立てることを、
自分の最初の使命と考えている。弟子はたゆまぬ勤勉によって師のこの意図に添おうと努める。彼はまるでそれ以上の高い要求は
全然持っていないかのように、いわば自分に愚鈍な心服状態を背負わせる。こうして彼は、何年か経って初めて、完全に自己のものと
した形式が、もはや自分を圧迫せず、かえって自己を解放するという経験を持つようになるのである。彼は一日一日と次第に容易に、
どんな芸術的霊感にも、技術的には造作なく従うことができるようになる、が同時にまた心をこめた観察の中から、霊感をぞくぞくわかせる
こともできるようになる。例えば、筆を持つ手は、彼が心の中で創作活動を始めるのと同じ瞬間に、いち早く狙い誤たず頭に浮かんで
いるものを仕上げてしまうのである。そしてついに弟子は、精神か手か両者のどれが、その作品の責を負うかをもはや知らなくなるのである。
しかしそこまで行くためには、すなわちその技量が“精神的に”なるためには、弓道の場合と同様に、心身の全力の集中が必要なのであって、
これは、どんな事情の下においても放棄され得ないものである。(傍点・引用者)


稽古が目指すのは「自由」の境地なのである。「型にはまる」だけではその「道」を窮めたとはいえない。型をしっかり踏まえながらその型を
超えていくと、いちいちの動作から心が離れ、自由自在に技が繰り出せるようになり、「我もしらず」という境地に至る。そう、「ゾーンに入る」のだ。
そうした稽古の階梯は「守・破・離」あるいは「序・破・急」と呼ばれた。


◎人は、幸福に暮らしているから朗らかなのではなく、朗らかにしているから、幸福な事情がつぎつぎにあらわれてくるのである。
◎世の人は、身体が悪いから働けない、というように考えているが、それは反対である。・・・・・・病気になってからでも、出来る仕事を心配なく
働きつづけていたら、それ以上悪くならないばかりでなく、次第によくなってくるものである。


習慣は成長の敵なのだが、習慣を突き破るところに成長がある、というべきかもしれない。習慣を突き破る上での導き、それが直感だった。
直感は低次の「爬虫類の脳」ではなく、上位の「人間の脳」と「哺乳類の脳」との間の力動から生まれる。すなわち、「下から上」ではなく
「上から下」に作用する心の機能であった。ちなみに、習慣に依存する怠惰怠慢、あるいは自己保存の心意は、「下から上」によるものである。
技芸の世界における達人の開眼に、直感が大きな働きをするとともに、日々の稽古における向上のプロセスにも直感は欠かせなかった。
このようなことから、「気づいたらすぐする」という実践の意義が明らかになる。気付きという直感は、その時その場の状況に応じて、実に多様に
発現する。それをキャッチして行動する場面場面は、いつも異なっていて、常に新しい。すなわち受動的な習慣を突き破り、われわれは
「新に生きる」ことができる。
実践とは非日常的な行為だったが、あることを実践してそれが出来るようになると、習慣化してしまう場合が多い。日常化してしまえば、もう、
実践ではなくなってしまう。直感による「即行」にそうした習慣化は起こらない。「即行」が非日常に止まりっぱなしということも決してない。
「日常→非日常→日常」の好ましいサイクルが「即行」の実践においてもたらされる。


「純情」の対極がわがまま(エゴイズム)であり、わがままは習慣に安住する。わがままな生き方を変え、機械のように自動操縦されて生きるだけの
人生を乗り越えたいのであれば、「即行」ほど的確な実践はない。


オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』(柴田治三郎訳、岩波文庫、1982年)
同『弓と禅』(稲富栄二郎・上田武訳、福村出版、1981年)
黒田亮『勘の研究』(講談社学術文庫、1980年)

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