11/08/2007

ご臨終メディア


ご臨終メディア 森達也・森巣博





森:森巣さんが指摘するように、高収入によって醸成される保守性が今のメディアのスポイルの大きな要因だとしたら、
  その既得権益を自発的に捨てさせることができるかどうかは疑問です。やはり外圧がないと・・・。
森巣:しかしそれなら庶民の味方みたいな面するなと。年に3000万円近くも取っておいて、自分の使命を果たさず、
  夜は会社の金で酒飲んで、「領収書切ってね。あっ、日付は入れないで」なんて言うのですよ(笑)。だからやっぱり給料を、
  15分の1にせいと。
森:森巣さん、減額の割合がどんどん増えてますよ(笑)。



森巣:森さんがおっしゃったとこで、一つの重要な論点が浮かび上がりました。相手を知らないゆえに憎悪しているという点。
  だからこそ知りたくないわけですよね。
森:そうですね。知ってしまったら憎悪できなくなってしまう。それをどこかで感知してしまうから、目をそむけてしまうのかもしれない。
  まぁ、オウムの場合はこれに加えて、彼らに対しての嫌悪が突出して強いですから。それも含めて考えねばならないとは思うけれど。


実際には巨悪を黙認し、かつそれに加担しつつ、正義を背負っているように振舞うジャーナリストたちには反吐が出ます。しかも倒れるのを
待っている。不正を告発するのがジャーナリズムのはずでしょうが。ところが、倒れたものを叩くのがジャーナリズムとなってしまった。


そもそも、ジャーナリズムという仕事―メディアの仕事と言い換えてもいいですが―には、他人の不幸を食い物にして成立する領域が
とても大きい。だから、生来的に後ろめたさがあって当たり前の仕事なんです。賎業くらいに思ったほうがちょうどいいと僕は思っています。
ところが今は、後ろめたさがどんどん希薄になっています。この負い目や後ろめたさが消えたとき、メディアは、暴走するんです。


権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。
その権力の腐敗を、国民の代わりに監視するのが、ジャーナリズムの役割なのです。


レン・マスターマンが指摘した、メディアは現実を反映しているのではなく、再構成してから提示するという考えそのものですね。


メディアにおけるリアリティは、本物ではなく、本物らしいということです。これは決して皮肉ではなく、受け取る側の感応力が重要なんです。
だからこそ、メディアが発達することで、リアリティは増大せずに逆に消失するんです。ベトナム戦争とイラク戦争のリアリティを比べてみたらいい。
あるいは三〇年前のビアフラと今のスーダンの飢饉。規模や被害は同じようなものです。むしろ今のほうが悲惨かもしれない。でもメディアが
リアルタイムに、わかりやすく、情報量が増大する過程と並行して、受容する側の想像力が消えていくんです。


今、メディアに携わる人間も、確信犯的に状況を悪くしようと思って仕事をしているわけではなく、どこかで日本を長くしよう、自分たちの
理念を全うしようと考えているとは思います。それが硬直し、麻痺し始めている。さらに、僕が危惧している一番の点は、自分たちが
手を汚しているという自覚があれば、まだ改善の余地が存在するんですが、それすら消えてしまったときに、まさに自動律が始まるんです。


みんな一緒の社会のほうが、ずっと怖いのです。異質なものを混ぜて一緒にやる。これが本来の意味での多元主義の立場です。
異物はわからないからといって、排除してしまったら終わり。そこで思考は止まります。わからないものはわからないまま。置いておいて、
一緒に考えればいい。
自分も考える、向こうも考える。自分が何かしようとしたら、嫌なヤツも入れる。好きなものだけで集まっても、仲良しグループができるだけで、
つまらないものしかできない。だから、メディアには、多元性があっていいはずなのに、一元化されて、みんなでいい子グループをやっている。
「救う会」にしろ、「新しい教科書を作る会」にしろ、下部で働いてる人たちは、自分はいいことをしていると、きっとみんなそう信じているので
しょう。福音を伝道しているのだと思っている。


ところが、わからない、理解できない相手は、はじいてしまう。北朝鮮の手先だ、アルカイダの兵士だ、テロリストだ、非国民だと排除してしまう。
なぜかは理解できないけれど、テロリストたちがあれだけのことをするには、それなりの理由があるんだと考えることができない。わからないのなら、
なおのこと相手を知ろうとするために、その考えを聞き、知ろうとするべきにもかかわらず、わからないからといって徹底的に差別する、排除する。


暴走します。悪意は暴走しない。ただし、開き直ります。
森巣:悪意には、ある程度までの、底というべきか天井があるのかもしれない。ところが、善意というのはどこまでも突き進んでしまう。


その無自覚性の積み重ねの先にある社会こそが「怖い」のです(笑)。いつの間にか、私みたいな人間がサヨクと思われるような世の中になってしまった。
私の立場は明瞭です。左翼は難解、右翼は厄介(笑)。アメリカでは、愛国者法(反テロ法)が成立しました。日本もその方向に進んでいる。
愛国者法を成立させたUSAは、私がセックス・ドラッグス・ロックンロールをやっていた頃のUSAではありません。敵を作り、敵を攻撃することが正義と
なりました。おまけに、それに反対すれば非国民です。


今のメディア自身も、善意を体現しようとして、そこに正義という言葉を入れ替えて、その御旗の下、麻痺し始めている状況ですから、社会全体の
善意による暴走という構造は、拍車がかかるばかりの状態になりつつある。
森巣:それでも、表現することを恐れてはいけない。意義申し立ては必要なのです。周囲に気を取られて、保身しているようでは、奈落しか待ち受け
ません。森さんが書かれていたことですが、表現することによって傷つく人がいるかもしれない。それは絶対どこかにいるのです。それを気にしてばかりいたら、
何も書けなくなってしまう。表現とは誰かを傷つける可能性を含むものなのだという自覚は必要です。その加害者性を受容して、表現が開始される。


傷つくであろう人がいるということは、気にはしてほしいし、忘れてほしくない。だからといって、気にしすぎてしまったら、それで機能しなくなってしまう。
後ろめたさを思いっきり持って、ああ、こんなに毎日毎日多くの人を傷つけているって、めそめそ泣きながら仕事をするくらいの気持ちを持続してほしい。
その自覚もないのに、ジャーナリズムや表現に携わってはほしくないですね。


人を刺すのは、自分も刺されることを受け入れて、はじめての成立可能な行為です。自分が刺されることを受け入れないから、現状のように、どんどん
抗議のこないほうに向かってしまった。
森:・・・・・・でもね、刺される窮地にまで自分を追い込む必要はないんです。メディアの特権は、人のことを刺すけれど、自分は刺されない位置にいること
です。とんでもない特権です。だからこそ、それに見合うだけの自覚と働きは、当然要求されるべきなんです。


自分がくだらない、虫けらみたいな人間なんだというところから出発したほうがいい。正義であったり、公共の福祉であったり、知る権利とか、
表現の自由がどうだとか、そういったことを持ち出すから、どんどんどんどん錯覚していってしまう。
一回原点に立ち返ればいい。メディアという仕事は、ほとんどが人の不幸をあげつらうことで成り立っている。不幸でなくとも、聞かれたくないような
ことまで取材しなければならない場合もあるし、取材方法だって家族には見られたくないようなことばかりしています。そしてその結果、常に誰かを
傷つけることで成立しているんです。そのことに対する後ろめたさを持ったほうがいい。それだけは、絶対なくすべきではないと思っている。
卑しい仕事なんです。その視点から、もう一度、メディアというこの重要なジャンルと、向き合うべきと思っています。


長い博奕体験から、私には言えることが一つある。それは、希望が絶望に変わるのは諦めたときなんです。諦めちゃいけない。
絶望に陥ってはいけないのです。

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