1/28/2008

ROCK AND ROLL HEART 鳥井賀句














ROCK AND ROLL HEART 鳥井賀句


お前は小さなアングラ劇団で芝居をやりながら、隣街のジャズ喫茶でバイトしたり、美術大学で絵のヌード・モデルをやっていた。
お前の好きなものはパティ・スミスにランボー、エッシャーの版画、アントニオーニの映画に寺山修司の演劇だった。
相変わらず俺の暮らしは貧しかったけど、俺たちは互いの仕事の休みの日を見つけては、映画やロック・コンサートに出かけて行った。


シンプルなコード進行、ティーン・エイジ特有のフラストレーションや性への欲望を赤裸々に歌いあげた詞、イギーの狂おしいヴォーカルは、まさにこれぞ“元祖パンク”と呼べるものである。


イギーとストゥージズに関しては、他の追随を許さない暴力的なステージ・アクト・・・熱くなったワックスを体に塗りたくる、割れたガラスの破片でわが身を切り裂く、折れたドラム・スティックで自分を打つ等々が語り草になっている。
今回、イギーにその辺のことを尋ねてみると、「当時は、俺たちの音楽なんか別に好きでもない奴らに対して“注目を集めるためなら何だってやってやる!!”っていう理論を持っていたんだ。
“できないことなんてないんだ。人を殺さなきゃいけないなら殺してやる!”ってね。
それと同時に、俺はアーティストとして、パフォーマーとして、自分が観客である場合に欲求しうるものすべてを観客に与えようという理論を持っていたんだ。
俺にとってのロックとは、テレビよりも真実の自分自身を世界にアピールする方法なんだと思う。
俺が見た多くのコンサートに欠如していた深くてへヴィなものを提示したかったんだ。


『Michigan Brand Nuggets』


69年にデトロイトをベースに創刊されたロック・マガジン『クリーム』も、ストゥージズやMC5を大いにバックアップした。
後にパティ・スミス・グループのギタリストとなるレニー・ケイも寄稿者の一人で、彼は“デトロイト~アン・アーバーにはロックン・ロール・カルチャーとも呼ぶべき強い共同体が存在する。この地のロックンロールは中産階級的道徳や抑制をぶち破り、ストリートの上でドラッグやあらゆるタブーをワイルドに展開している”と書いている。


こうして60年代末、西海岸を中心としたヒッピーたちのフラワー・ムーヴメントがアメリカ全土を支配していた中で、デトロイトのストゥージズやMC5は、決して“愛と平和”などに惑わされることなく、常にロック本来のエナジーと怒りを、エモーションに求め続けたのである。



何よりもイギー・ポップ自身がロックン・ロールという音楽と行為と思想を、自らの存在のすべてを賭けて求め続けてきたからに他ならない。どうでもいいようなくだらないロックのレコードを1000枚集めて聴くよりも、イギー・ポップのアルバムを10枚だけ100回ずつ聴いたほうが、きっとずっと深くロックという音楽を認識できるだろう。


「俺は失敗し続けていたいとは思わない。俺は過去に多くの失敗を犯してきた。だから俺は成功したいと思っている。俺は本当に心底素晴らしいアーティストになりたいんだ。俺は自分がグレイトであるとは思っていない。だから俺には俺の望む者になるまでやり続けねばならない多くの仕事がある。それが、俺が決してギブ・アップしない理由なんだ」(イギー・ポップ、1986年)


もっといまわしく、もっとワイセツに、もっと毒々しく、もっとよこしまに・・・・・・


当時のシーンにあってヴェルヴェットの革新性そして孤高性とは、ひとつにはリアリズムに徹し、あくまでも都市の狂気と喧騒の中に身を置きながら、人間存在の真実と苦悩を見つめていこうとするその姿勢にあった。


西海岸の連中が“髪に花を飾ってピース、ピース”と能天気なエコロジストを気取り、カントリー~田園思考に走っていったのに対し、ヴェルヴェットはあくまでも都市ニューヨークにとどまり、多くの人々がタブー視していた麻薬による歓喜と苦悩、サドマゾ、同性愛、死・・・等の人生の暗黒部を照らし出すような題材を詞のテーマに揚げていった。


西海岸の連中のような花柄Tシャツにジーンズではなく、黒いサングラスにレザー・ジャケットといった彼らのルックスも、そのモノクロな質感とイメージを決定づけた


ヴェルヴェットの功績とは、他の誰もがタブー視していた人生の暗部(本質)に一切の妥協なく深く入り込んで行ったこと、アヴァンギャルドとポップの精神を融合させたこと、“都市音楽”としてのロックを常にストリートに立って描き出したこと、そしてロック・ミュージックというものが、単なる娯楽以上の意味を語ることができるのだということを、身をもって表現したことだと言えるのではないだろうか。


“ルー・リードは最も過小評価されている現代アメリカの詩人である。”


その意味において音楽の中に歌という形で、歌詞という言葉の表現領域が参入してきた時、我々は演奏力やメロディに対する感覚的な対応とはまた違った形で、否応なしにその言葉に対峙せざるを得ない。たとえばここにどんなに素晴らしい歌唱力と演奏力を誇るバンドがいたとしても、彼らが歌っているその歌詞がどうしようもなく差別的な発言や愚鈍な言い廻しに満ちていた時、あなたはその歌や演奏を心底楽しめないどころか嫌悪感を抱いてしまうかもしれない。つまりメロディやインストゥルメンタルに対しては気分的に対応できても、言葉というものは常に観念を、思考の内実を語ってしまうから、あなたはその歌に対し意識的に意味づけをせざるを得なくなるだろう。


私はロックという音楽が現代においてこれ程の影響力を持ち得たことのひとつは、肉体を開放しようとするその強烈なビートや、あらゆるものを雑食的に取り入れようとしてきた自由でフレキシブルな精神以上に、ロックン・ロールが歌という形で、常に言葉による批評性を媒介としてきた表現形態であったことが大きいように思う。ビートルズやローリング・ストーンズ、ボブ・ディランやこのルー・リードといったアーティストたちは、それまでのティン・パン・アリー的な三文ラヴ・ソングとしてのポップスではなく、ある種の文学的感受性とビートニク的自己探究、旧世代に対するカウンター・カルチャー側からのステイトメント・・・といったものをロックの歌詞の中に詩的に織り込むことによって、ポピュラー・ソングの歌における歌詞の表現の幅を拡大しただけでなく、歌詞の言葉を通して彼らの思想や批評精神を社会に伝達してきたのだ。それは詩というものがロックン・ロールという音楽と一体となる事によってもたらされた極めて浸透力の強いコミュニケーションであり、ひとつの新しいメディアとして存在していた。故に、彼らの歌の多くはその思想の過激さや表現のリアルさによって、ラジオやレコード倫理規定委員会や世のPTA連中から度々の規制や弾圧を受けてきたのである。



①ヘヴィ・メタルの様式美的な、あるいは直線的な発散型サウンドではなく、ブルースやブギ、ブリティッシュ・ビートをルーツとする横揺れのロックン・ロール型ハード・ロックの復権
②ダルでルーズな乗りに絡むファンキーなうねり
③“セックス、ドラッグス&ロックン・ロール”に代表される、不良の音楽としてのロックのかっこ良さへの再認識
④現代性を取り入れながらも、常にルーツとなるブルース・フィーリングを失ない
⑤アメリカの20代の若者たちにとっての少年時代のロック・ヒーロー
・・・・・・こういった事項が要因となって、現在のエアロスミス・リヴァイヴァルが成り立っているのだと思う。


早いハナシが、結局、ロックン・ロールっていうのは、セクシーで悪っぽくて、ルーツを極め、カッコイイ、ファンキーな音楽だったってこと。それがエアロスミスだったんだよ。


ロック・ミュージシャンは常にストリートやキッズの気持ちを忘れてはならないと思っている。
高度な芸術家としてのミュージシャンや崇高な哲学者としてのアーティストが存在することは別に否定しないが、僕はあくまでもストリートに立ち続けるロック・ミュージックにこだわり続けたい。


つまり俺の言いたいのは、パンクでもロックでもヘヴィ・メタルでも、イメージや他人様の作りあげた概念に捉われるなよ・・・ということさ。結局のところパンクであろうとなかろうと、人は自らの1回限りの人生を、自らの個有性において生きていくだけだということだ。精神パンクだろうとファッション・パンクだろうと、営業パンクだろうと、そんなもんは勝手にやってくれよ。安全な道を行くのも、ヤバい橋を渡るのも、アンタのやり方次第さ。ロックで世界は変わりはしないが、人の心を変えられるかもしれない。だがそれをどう受け止めて行くのかは、全く個々の存在においてでしかない。要は変わったアンタが何をし、どうなって行くかだ。その時“パンク”というお題目はそれだけの意味でしかない。万物は流転するのみだ。


頭脳警察は“反抗と怒り”をテーマに“ふざけるんじゃねぇよ、テメエの善人ヅラをいつかぶっ飛ばしてやらあ!!”と歌い、当時のドロップ・アウトの若者の気持を代弁していたのである。それは今から考えると“早すぎたパンク・ロック”と呼べるものだったのだと思う。


ストーンズのキース・リチャーズが最近あるインタビューで言っていた。“ロックっていうのはガキの音楽で、10代の子がデュラン・デュランを聴いているっていうイメージしか持たれてないけど、俺はブルース・マンのマディ・ウォーターズが50過ぎまで本物のブルースをやり続けたみたいに、50になってもロックンロールをやり続けられるんだってことを証明したいんだ”と。
これからの日本のロックがより本物を目指すのなら、海外の聴衆や、30過ぎの洋楽ファンをも納得させてしまうだけの存在感と音楽的才能を持ったアーティストがどんどん登場しなくてはならないと思う。そうでないと、いつまでたっても真の意味でのロックが日本に浸透することはないだろう。


ロックン・ロールというのは、ピンナップ雑誌のアイドルの写真のように、20歳を過ぎたからといって“卒業”してしまえるものではないのだ。ロックン・ロールとはいつまでも夢を見続ける奴らの、おしきせの人生を拒み続ける奴らの、いつまでも不良少年のマインドを忘れない奴らの、そして目一杯カッコよく決めたい奴らの、永遠の子守唄なんだ。


(済)極論をい言えば、歌詞のくだらない歌は結局下らないというのが僕の考えだ。


ロックン・ロール・プリズナー

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