2/27/2008

骨法の完成 堀辺正史













骨法の完成 堀辺正史

勝っているときはイイ恰好もできるわけですよ。逆に負けに追い込まれたときにどういう精神状態が闘いの中で見られるのか。
ヒクソンっていうのは選手としても尊敬できますけど、人間性を見せないという部分では非常に演出がうまいなって気がします。
だから強いことは認めるけれども、彼が最近、自分のことを「侍だ」とか言うことに関しては、ハッキリ言わせてもらえば不愉快ですね。
自分を犠牲にすても公のために尽くす精神ってのが侍精神というのだからね。

非日常状態で耐えられる人間力がためされる
苦しいこととか、つらいことに耐えている力が、やっぱりね、男がこの世の中を生きていくときに一番頼りになるもんなんです。何事にも動じない精神と何回やられたってもう一回立ち上がるっていう精神さえあれば、この世は貧乏だって生きていけるんですよ。だから簡単にいってそういう肝の力っていうか度胸を作るっていうことですね。

上品と下品は背中合わせ。下品も極めれば上品になるということですかね。だから、前田日明にはそれを貫いて欲しいですよ。変に文化人みたいになってほしくない。

用美道とは、
「用」とは、実用を離れざる心
「美」とは、練磨を尽くして無駄を省く心
「道」とは、技を殺して人を殺さざる心

武道とは、すなわち「野蛮を知性に逆転する論理であり、日本が世界に誇れる文化である」と。
武道では「状況不平等」の作りをもって、大きい人、重い人、力の強い人などの「前提不平等」を逆転することが可能なのである。つまり、武道の競争原理は、毒(状況不平等)をもって毒(状況不平等)を制する、ところにその本質がある。

物理的に逃げられない状況を最初から作っておいて、そこで戦うというのは、本質的に武道の競争原理とは異なるんです。自分の意志で、たとえ逃げ道があっても逃げないというのが武士の戦いなんです。それに比べると、あれは奴隷の戦いですね。だから、私はアルティメットを、古代ローマの貴族の見世物だったパンクラシオンに譬えたことがあります。

武道の競争原理で言えば、相手の弱点を狙うのは当然のことであり、その一方、相手に弱点を見せない、あるいは弱点があっても狙われないようにしてこそ武道なんです。武道(現実)とスポーツ(理想、非現実)では物事の見方、見え方がこれだけ違ってくる。
そして、私はいまのような混迷の時代にこそ、自立した精神を持ち、無償の行為や、自己犠牲を厭わない行動ができる武道精神をもった人物が育つべきだと考えています。

正義を貫こうとすれば、闘いを避けて通ることは絶対にできないのだと。

勇気の精神的側面は落ち着きである。つまり、勇気は心のおだやかな平静さによってあらわされる。
平静さとは、静止の状態における勇気である。勇敢な行為が勇気の動的な表現であることに対して、これはその静的表現である。まことに勇気ある人は、常に落ち着いていて、決して驚かされたりせず、何事によっても心の平静さをかき乱されることはない。
彼らは、戦場の高揚のなかでも冷静である。破滅的な事態のさなかでも心の平静さを保っている。
地震にあわてることなく、嵐に立ち向かって笑う。私たちは危険や死を眼前にするとき、なお平静さを保つ人、たとえば、迫り来る危難を前にして詩歌を作ったり、死に直面して詞を吟ずる人こそ立派な人として尊敬する。文づかいや声音に何の乱れもみせないこのような心のひろさー私たちはそれを「余裕」と呼んでいるーはその人の大きさの何よりの証拠である。
それは押しつぶされず、混乱せず、いつもより多くのものを受け入れる余地を保っている。

武士にとって戦場で斬られて死ぬこと、負けることは恥ではなかったことがよくわかる。彼らにとって最大の恥は切腹ができないことであり、切腹に失敗することだったのである。
切腹が武士の道徳となってからは、二本差しに対する解釈も変わっていった。かつての戦国の時代では、小刀は大刀が使えなくなった時の、予備的役割がその主たる目的だったが、江戸時代になると、大刀は人を斬るもの、小刀は自分を斬るためのものとして、存在理由が明確化されるようになったのである。
では、切腹とはいったい何か?人間には様々な欲望がある。物欲、出世欲、性欲、そのすべての根源になる欲望は「生きたい」ということだ。切腹は、その「生きたい」という欲望を自分で確認しながら、否定していく行為なのだ。
そしてまた切腹は、いわゆる衝動的な自殺とは、まったく別種類のものだ。なぜなら、切腹は一瞬にして自分の命を断ちたいと思う者には、もっとも向かない、苦しみが長く続く、きわめて非能率的な自殺法であるからだ。言い換えれば、切腹というのは楽に死んでしまっては、切腹としての意味がなかったのである。
とても衝動でできるものではなく、よほど強い意志で自分をコントロールしなければ、なし得ない行為なのである。そのような苛烈極まりない手段を、侍の死に方として選んだところに、武士の武士としての意地があったのである。

たしかに切腹は外見上、野蛮な行為ではあるだろう。だが、いつでも腹を切る覚悟を持って生きるということは、武士たちを私欲を超えた高い道徳的エネルギーを持った人間へと、変質させたことも事実なのだ。小さな欲望(自我)を捨て、大きな自我を得ることによって、武士たちは、本能に邪魔されることなく、新しい価値観、つまり自分の望むままの人生観を持つことができたのである。

武士は子どもに武士の切腹を見せます。西郷隆盛が子供の時一番ショックだったのは、自分のおじさんが切腹すのに、立ち会ったときです。おじさんいわく、「俺は悪いことはしてないのに、切腹することになったが、いついかなるときでも、サムライというのは俺のように死ねなかったらいかんのだ。よく目を開いて見ておけ」と。これは人間の成長に影響を与えますよね。結局、人生の一番深刻な問題から目をそらすよう、そらすよう教育しているのが、今の日本なんです。
もちろん、教育的暴力でないものには絶対反対だから、これはいっておきますけど。

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