8/07/2007

三世(さんぜ)をみつめる


三世(さんぜ)をみつめる/ひろさちや&玄侑宗久

ヨーロッパには「ノブリス・オブリージュ」という精神があります。ヨーロッパの貴族の家に生まれた人間は、いずれ皆を統率していく宿命にあるわけだから、厳しい教育を受け、高貴さ・崇高さを養うのが義務であるという精神です。
仏教には「長者」という言い方があります。長者というくらいですからお金持ちです。しかしそれだけではない。また人徳もある人をいいます。いまこの「長者」という概念を一般の人に説明しようとすると非常にむずかしいのは、お金持ちは人徳もあるという常識がまったくないからです。アダム・スミス風にいえば、今はお金が空を飛んでいます。お金がお金を生む投機の世界には人徳など関係ないということでしょう。
ところが長者もそうですし、ノブリス・オブリージュを求められたヨーロッパの貴族もそうですが、お金持ちは必ず人徳もあったわけですね。

意識は丹田に置け
私は演台に立つと、踵を上げて体を揺すって意識を落とします。あがっている状態というのは、意識が頭にあるわけです。ですからちょっと体を動かして意識のあり場所を変えてやる。そうするしかありません。
意識のあり場所は重要なテーマだと思います。体の中心部である丹田に意識を据えたとき、いちばん体から力が抜けます。

明治以降、維新政府は徹底して家族を壊しはじめます。家族を壊さないことには天皇制宗教をつくれなかったのです。ヨーロッパ型であれ、あるいは昔の中国・インド型であれ、家族がしっかりしていれば、だれが天皇を敬いますか。自分の家の宗教がちゃんとあって、家長に絶対権があって、さらに家長に対する尊敬の念があれば、天皇を盲信するようなことはありません。それでは天皇制が成り立たないから、維新政府は家族を壊したわけです。
中国など、昔は家族や親類のなかに優秀な子が出ると、みんなでその子を援助して出世するよう一生懸命に育て上げた。そしてその子が軍の大将にでもなれば、今度はみんなが職を斡旋してもらったり、一族郎党が食わせてもらった。そういうシステムがありました。

家は桎梏か
日本の場合はたしかに明治以降、国家への「忠誠」が求められるようになり、それとともに「家」という大きな砦をなくします。そして戦後になると、かろうじて残っていた家さえも「桎梏だ」「家は悪いものだ」となりました。
イプセンではないけれども、「人形の家」です。人は家に縛りつけられている。そこから自由になりたいと主張しはじめる。しかし家から自由になった人間は会社の奴隷になるしかなかったわけです。そこを見抜けなかったのは戦後の日本人、とりわけウーマン・リブの人たちの愚かさだと思います。

教育は義務か
教育は家庭でやってもいい、いや本来は家庭ですべきものだと思います。子供に教育をするのは親であるべきだというのが私の考えです。
あるお坊さんがこんな事を言ってました。「私たちは納税の義務で財産を奪われ、教育の義務で魂を奪われ、そして徴兵の義務で生命を奪われる」と。まさに至言だと思いましたが、国家とは泥棒の親分のようなものだ、というのはじつは仏教のものの見方でもあるのです。


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