8/08/2007

仏教に学ぶ老い方・死に方







仏教に学ぶ老い方・死に方 ひろさちや



「商売人というものは、客のお金に頭を下げるんや。なにもあのお客に頭を下げているのんと違う」



―大阪の商人は、金には頭を下げるけれども、金持ちには頭を下げない―



『閑吟集』というのは、室町後期につくられた歌謡集です。編者不詳。庶民の生活感情を伝えた当時の歌が収録されています。その中で、わたしのいちばん好きな歌が、《何せうぞ、くすんで、一期は夢よ。ただ狂へ》です。


「何になろう、まじめくさって、人間の一生は夢のようなもの。狂えばいいのだ」と訳せばいいのでしょうか。


“くすむ”というのは、《きまじめである。まじめくさる》(『大辞林』)といった意味で、世間の物差しに自分を合わせて、それに忠実に生きる生き方です。要するに世間の奴隷ですね。そんな馬鹿げた生き方をするな!『閑吟集』はそう忠告しています。


じゃあ、どうすればいいのですか?


―――ただ狂え!―――狂えばいいのです。


世間の物差しを否定するのです。考えればわかることですが、もともと世間の物差しのほうが狂っているのです、それは人間を商品化してしまった、おかしな物差しです。


だから、その狂った物差しから狂うことによって、わたしたちは「まとも」になることができるのです。私はそう思います。






老いることは商品価値の低下であるが故に、老人たちが老人であることを恥じ、少しでも若くあろうとしてがんばっている姿。


どう考えても悲しいですね。


老人が尊敬される日本にするためには、老人がみずから老人であることを誇りに持たねばなりません。そのためには、人間を商品価値で測る物差しを捨てるべきです。


諸悪の根源は、人間を商品価値で測る物差しです。でも、その物差しを捨てるためには、社会を根本から変革せねばなりません。


早い話が革命が必要です。


いっさい貨幣というものをなくした社会にせねばなりません。それは共産主義社会ではありません。強いて言えば、縄文社会です。


とすると、日本の人口は数百万人ぐらいにせねばならない。だから、絶対に不可能です。じゃあ、どうすればいいのでしょうか・・・・・・?また振り出しに戻ってしまいました。






捨てるというのは、それを笑い飛ばすことです。馬鹿にするのです。


というよりも、それに代わる、―もう一つの物差し―を持つことです。


実際には、いま世間で通用している「人間を商品と見て、その価値を計る物差し」を捨てることは、なかなかできることではありません。


われわれは幼児のころから、その物差しを教え込まれてきました。すっかり洗脳されてしまっています。だから、それを捨てることはほとんど不可能です。


でもそこで、もう一つ別の物差しを持ちます。そうすると、世間の物差しが「絶対」でなくなるわけです。絶対でなくなれば、われわれはその呪縛から解放されます。わたしたちは世間の呪縛から解放されて、「自由」になれるのです。






そもそも国家というものは、知人のお坊さんが言っていましたが、われわれ庶民から、納税の義務でもって・・・・・・財産を掠め取り、兵役の義務でもって・・・・・・生命を強奪し、教育の義務でもって・・・・・・魂を奪い去る、ものなんです。いまは兵役の義務はありませんが、うかうかしていると国家の代りに大企業が過労死という形でもってわれわれの生命を略奪しかねません。






老いをどう生きるか・・・・・・といえば、基本的には「世逃げ」のすすめになります。


そして、具体的にどうすれば「世逃げ」ができるかといえば、世間と道徳と他人にむやみな関心を持たないことです。


そもそも日本人は、世間や道徳、他人に対して関心を持ちすぎています。


若いあいだは仕方がないとして――本当は若者だって、あまり世間・道徳・他人に関心を持たないほうがいいのですが――、老人にまでなって関心を持ち続けるのは感心できません。



―四住期―
1 学生期・・・人生の最初の時期。この期間は師より真理を学ぶ。
2 家住期・・・家にあってそれぞれの職業に専念する期間。
3 林住期・・・森林に住む機関。つまり家を出て隠居する時期。
4 遊行期・・・その森林も出て、放浪の生活をする期間。






人間社会においても、現実に強者と弱者があります。その場合、強者のほうの義務を大きくすることによって、「公平」が回復されます。


ところが、現代日本の社会は平等をタテマエにしていますから、義務に関しては強者と弱者が同じになります。そうすると、当然、弱者のほうが負担が大きくなります。


タテマエの平等が結果としての不平等をもたらすことになります。人間が発明したもう一つの文化は、―布施―の思想であり、これは主として仏教が教えるものです。


これも現実社会に強者と弱者があり不平等であるのを、強者の負担を重くすることによって公平を保とうとする思想です。


布施は、強者から弱者への施しです。けれども、どうやら日本人は布施の思想を誤解しているようです。日本人にかかると、布施は、強者が弱者に恩恵的に、また恣意的に施すことになってしまいます。


だが、仏教が説く布施は、そのようなものではありません。強者は人間の義務として、弱者に施しをすべきです。それが仏教の本来的な意味での布施です。


したがって、布施において感謝すべきは、施しを受けたほうではなしに、施した者です。


つまり、貰った者が「ありがとう」というのではなしに(言ったってかまいませんが)、施した者が、「あなたが受けてくださって、わたしは人間としての義務を果たすことができました。


「ありがとう」と言うのです。そうしたとき、本当の布施になるのです。
<俺がおまえに施してやったんだぞ。お前は俺に感謝しろ>といった気持ちがあったのでは、本当の布施にならないとされています。


ところが、平等をタテマエとする日本の現代社会では、この布施のこころが機能しません。


施しがなされても、それは見掛けだけの施しであり、施した者はそれをいつか取り返したいと思っています。


つまり、施しは一時的な貸し付けであり、将来の返済が予定されています。


その将来の返済が期待できないときには、強者は弱者に布施しようとはしません。そうすると、弱者に救いがなくなります。


しかし、日本人は平等をタテマエにしていますから、日本には弱者は存在しないのです。だから、弱者の救済がなくても困りません。平気でいられるのです。






人間、誰だって、独りで気ままに生きるほうが気楽でいい。


それで、気楽な暮らしができるうちは、気ままに会社人間でいて(いや、仕事をしててもいいのです。しかし、子どもと離れて仕事中心で生きている姿勢が問題です)、退職後は遊んで暮らしておいて、独りの生活がつらくなったから子どもと一緒に住みい・・・・・・というのは、わがままでしょう。


子どもと一緒に住みたいのであれば、若いうちにさっさと仕事をやめて、子どもが住んでいる場所に移って、留守番や子守をすべきです。


それが、すでに述べたように、インド人のライフ・スタイルです。世界のほとんどの人々は、そういうライフ・スタイルで生きています。


会社の奴隷になり、身も心も会社に売り渡した日本人の老年が、わびしく、みじめなものになっても、それは自業自得ですよね。


まぁ、ともあれ、長寿社会というのは、そのような問題をわれわれに投げかけています。そのことをしっかりと認識しておいてください。






世間の中にいて、世間の中でそれなりのポストを得て活躍している人間は、やはりどうしても世間の価値観でものを見ます。


世間の物差しを使うよりほかありません。そうでないと、世間に通用しないのですから。そうすると、その世間の物差しの歪みを指摘できる人間は、世間を一歩退いた「出世間人間」です。つまり老人。老人だけが現実社会を批判する権利を持っています。
いや、権利ではなしに、義務かもしれません。というのは、日本の年寄りは、いつまでも世間の中にいて、世間の価値観・世間の物差しにしがみついています。


「生涯現役」だなんて馬鹿なことを言う年寄りが多くて、なかなか出世間人間になろうとしません。


そんな年寄りには、世間を非難する権利もないし、能力だってありません。世間の物差ししか知らないから、別の物差しでもって批判することができないのです。


日本の老人たちは、世間の外に出て、


――もう一つの物差し――


を学び、それを若い人々に教える義務があります。


年寄りがその義務を果たさないと、若い人たちがいつまでも屈辱的な奴隷的人間、商品化された人間でいなければならないのです。


そして、そのもう一つの物差しは、ほとけさまの物差しです。ほとけさまの物差しには、目盛りがついていません。


なぜなら、それは価値観を測る物差しではないからです。分別するための物差しではなく、あらゆる人間をそっくりそのまま肯定するための物差しです。


換言すれば、ほとけさまの物差しとは無分別智です。ほとけさまの智慧です。日本の老人は、そのほとけさまの物差し―無分別智―を学び、それを若者に教える義務があります。






芸術家にしても同じです。画家・音楽家・詩人たちは、貴族のパトロネージュ(引き立て)の下で活動できるのです。


その意味では、古代においては彼らも奴隷的存在であったのです。プロフェッショナルが奴隷の系譜に属するのに対して、アマチュアは貴族の系譜に属します。


だから、プロが尊敬されるのはおかしいのです。ヨーロッパにおいては、現代でもこのような考え方が基本にあります。


われわれ現代日本人は、いささか偏った考え方をしているのです。そこで私の提案ですが、年をとればプロを尊敬することをやめて、――アマチュアリズム――に立脚しましょうよ。


アマチュアであることに誇りを持つのです。
具体的にいえば、下手を楽しむ。あるいは、同じことですが上手になろうとしないのです。日本人はゴルフをするとき(じつはわたしはゴルフをしませんが・・・・・・)、練習をしてうまくなろうとします。それがつまりはプロ意識です。アマチュアは、練習してはいけません。下手なまま楽しむのがアマチュアの特権です。



日本人はギャンブルをするとき、勝とうとしますね。あれは見苦しい行為です。


勝つためならば、ギャンブルなんかしないほうがいいのです。


ヨーロッパの貴族は、ギャンブルを負けるためにします。


ゆっくりと負けを楽しむ。それが貴族精神です。アマチュアリズムなんです。



本当は、若いころからこのアマチュアリズムを培っておきたかった。


けえれども、世の中の風潮がそれを許してくれませんでした。


だからせめて老後は、アマチュアリズムに立脚しましょうよ。


若いころに奴隷的に馬車馬のごとく働いてきたわれわれは、老いの身になれば、――精神的貴族になっていいのです。


アマチュアリズムとは、じつは精神的貴族になることなんです。奴隷を卒業することです。私はそう考えています。

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