2/15/2008

最近のメモ帳2/15









最近のメモ帳2/15

やや過激に言うなら、50歳からの人生はすでに自分のものではない、と思い切ってもいいくらいだと私は思っている。
自分のものではない、他者のものだ、と思い切ったときに、はじめて再び自分のものに戻るのである。
「私は毎日、何百回となく自分の精神や肉体が、すでに亡くなった人や生きている人々の労働によって支えられていることを思い返している。だから、私も同じように人々のために献身しなければならないのだ」
これは、20世紀最大の知の巨人、アルバート・アインシュタインの言葉だ。

物理的な遺書から精神的な遺書へ、それは教育であったり、文章であったり、絵であったり、言葉であったり、さまざまな形をとるだろうが、多分それらはいずれも文化的なものに違いない。


長く一つの会社、職業についていると、考え方が固定化し、融通がきかなくなります。そのために新しい組織になかなか適応できない。

「大馬鹿者と言われるような非常識性」ということになるかと思います。要するにどでかい非常識と思われる発想をする。そして実現のために綿密な計画をつくり、知恵を出して最後には実現してしまう。」

「よいことを思えば、よいことが来る。悪いことを思えば悪いことが来る」

定年になれば、相手が頼んで来てくれていくらの世界です。

うぬぼれは早く捨てるべきなのです。あなたの代わりはいくらでもいて、皆があなたの職を狙っていると考えるべきなのです。

勉強するということは自分の脳の効率をよくし、記憶を高め、情緒も豊かにすることになるのです。ですから年をとっても勉強し、能力を高めようとすることは自分の人生をより豊かにすることであり、それは自分のためになることです。



知識や学歴は、金銭的に評価されるための手段としての側面を強めてきました。逆言すれば、金にならなければ、知識には意味がない。

官僚や政治家が賄賂を受け取るのは、欲に目が眩んでの行為だと思われていますが、実はそれだけではないように、私は感じています。彼らは自分のしている仕事が重要であり、大切であることの証明として、多額の金が自分のところに渡らされるのを望んでいる、という気持ちがあるのではないでしょうか。

ちなみに、子供からはなれて自分が社会参加(復帰)したいという母親の対極にあるのが、子供と密着して、その子を「いい子・優等生」に育て上げることにすべての情熱を傾ける母親です。
しかし両者は実は同じものですね。というのは、前者は自分が積極的に社会から評価されたいと思っているのに対して、後者は子供を「いい子・優等生」に育てることで自分が母親として優秀であると社会的に評価されたいと望んでいるにすぎないからです。このどちらにも「子供自身のため」という視点が欠落しています。そしてそれだけではなくて、親自身の視点さえもなくて、ただ世間からどう見えるのかというおびえだけがある、という状況に陥っています。

彼らは家に閉じこもっているのがいやだったり、家事から逃げたいのでしょうか。本人はそう思っているかもしれませんが、実はもっと深い理由があるような気がしてなりません。
実はみんな、自分自身とほんとうに向き合うのが嫌だから、それから逃げるために働きに出たがっているのではないでしょうか。子供と向き合うということは、ごまかしようもなく自分自身を見つめ直すということです。

だから逆言すると、自分らしく生きている人間は、たとえその生き様が不器用でも、正直で真剣に生きているのであれば、子供はそのことを見て取るのです。太宰のケースのように。

だから子供には、誠心誠意、率直に接したいと思います。それは子供と友達のように接することではないし、子供に自分の期待をぶつけることでもありません。親が真剣に自分本位の行き方を模索することが、親自身、幸福になるための第一歩であり、そんな親の姿を見せてやれたなら、子供のために何よりの贈り物となるでしょう。

自分に出来ることを精一杯やる。虚しく思われても、滑稽に見えても、他人が評価してくれなくても、子供のために種を蒔き、子供の心に種を蒔くのが、親というものです。

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